初めまして。eternite店主の橋本誠と申します。

普通そうに見える変わり者とよく言われます。

このページでは、そんな自分の自己紹介をしています。

こんな私ですが、興味を持って読んでもらえると幸いです。

生い立ち

産まれは岩国市の地元藩主の吉川様の城下町だった横山という場所になります。うちは本家では有りませんが、曾祖父母までさかのぼりますと、吉川様の家老の家で吉川様に仕えた学者の家系になります。

記憶力は比較的良い方で、幼少期の記憶では一番古い記憶が1歳の時に秋芳洞に行った記憶なんですが、異常に恐くて泣き叫んだ記憶が残っています。

次に覚えているのが3歳ぐらいで、自分の左目がほとんど見えていないことに父親が気付いた記憶でした。

広島の市民病院に連れていかれ、「左目はほとんど見えていません」と言われ、母親が泣き崩れ、「丈夫に産んであげられなくてごめん」と謝られた記憶は鮮明に覚えています。

そこから最初はほぼ毎週、徐々に回数が減って月1ぐらいですが広島市民病院まで通ったおかげでだいぶ視力は回復しました。

しかし、意識して「見る」ことをしないと普段はぼやけています。集中していない時は左が死角になっていますが、美容の仕事には差し支えが無いのでご安心ください。

家族構成は、父と母と2歳違いで兄がいます。兄は自分と違い頭が良く、中学に上がった時も「橋本の弟なのにどうした?」と言われて中学生時代を過ごしました。

この頃から自分には「勉学の才能が無い」と自覚し、体力にも自信がない自分に何ができるだろう?と考えていました。

大きな転換期は中学2年の3学期。今では考えれませんが、当時の岩国中学校は男子は全員坊主で、中学2年の3学期に初めて坊主以外が許されたのです。

「髪を伸ばせる!」思春期だった自分は当然おしゃれをしたい。しかし、子供のころから通ってた床屋のおじさんに切られると、どう頼んでもスポーツ刈りにしかならず絶望しました。

そこでかっこいい髪型をしている同級生にどこに行ってる?と聞いて同じ床屋に行くと、初めて思い通りになったのです。

そこのお兄さんに何が違うのか聞いたら「元々は都会で美容師をしてたけど、実家を継ぐために床屋の資格も取り直したんだ」と教えてもらい、当時の自分は「美容師の資格取るとかっこよく切れるんだ!」と思い込み、美容師という仕事に興味を持ったのです。

それまでは無理をして地元の進学校に行こうと勉強していましたが頑張っても合格ラインギリギリ。親にももう少し頑張れと言われていましたが、進学校ではなく、商業高校に行きたいと打ち明けました。

自分は美容師になるのに「将来自分が店を出すために簿記を習いたい」と話しをし、そこで初めて親に「美容師になりたい。なるからには店を持ちたい」という話しをしました。

幸いにも学歴などより、子供のやりたい事を尊重してくれる良き両親に恵まれたおかげで岩国商業→美容学校への道が開けたのです。

ただ、先ほどお話ししたように本家は吉川様にお仕えした学者の家系。高校1年生の時に6歳年下の再従兄弟と道端で会ったので話しかけたところ、「おばあちゃんに誠兄ちゃんと話すと馬鹿が移るから近寄るなと言われた」と素直な再従兄弟に言われました。

自分の知らないところで、父親は本家のおばさんに「お前の馬鹿が遺伝した」など言われていたことをその時知りました。

産まれた時に左目が不自由だったこと、進学校に行ける頭じゃないこと。自分が不甲斐ないと両親に辛い思いをさせてしまうことを痛感しました。

それから、自分に出来ることは人様に恥じることのないまともな大人になること。美容師として大成すること。「やるからには周りを黙らせるぐらいの結果を出さないといけない」と思わせてくれたので、今は感謝をしています。

大人になった今振り返れば、周りの人間に恵まれ、自分自身の逆境に腐らず向き合えたことが幸せだったのだと思います。

美容学校生時代

高校卒業後、中学時代から美容師になりたかった為、「どうせやるならトップを目指す!」と意気込んで上京しました。

しかし世の中は甘くありませんでした。

自分は特別な才能はないけど、人並みには出来るだろうと思ってましたが、びっくりするほど才能が有りませんでした。

 他の人が「一回目である程度出来る事も数回やっても出来ません。」 

担任にも笑いながら二年後落ちるわよと煽られるレベルでした。

放課後も練習したし、休みの日も練習したのに人並み。

ただ、努力すれば一応人並みにはなれる。努力しなければ人より劣るという事は認識できました。

「天は自ら助くる者を助く」サミュエル・スマイルズ

誰に決められた訳でもなく、自ら選んだ美容の世界。才能が無いからと努力しない人を誰も助けてくれない事はおぼろげに理解していたからです。

その後、才能は無くとも、諦めれなかった為銀座の老舗の美容院に就職。

ちなみに、その美容院に受かった理由は

面接担当の専務が早稲田大学、文学部卒で「美容師は本を読まないから人間性が育たない。」君は何か本を読んだ事が有るかね?

と問われ、当時読んでいた「車輪の下」「ツァラトゥストラはかく語りき」を最近読みましたと答えたら、「君は見所がある」と文学のすばらしさを語られ、数冊本を渡され入社式までに読みなさいといつの間にか合格していました。

その時渡された本が「老子」と「孔子」。今でも自分の中に「老子と孔子」二つの考えが時にブレーキになり、アクセルになり、矛盾しつつ根底にあります。

修業時代(1店舗目、銀座時代)

こうして、美容学生時代は大した優等生でもないくせに分不相応に銀座の老舗にて美容師人生をスタートする事ができました。

最初に入った職場は女性15人の中男は自分1人。社長が70代を始め、あらゆる世代の女の先輩に自分自身と男の美容師の不出来な所をご指摘いただきました。

最初は何かやれば「余計な事するな」やらなければ「なんで自発的に動かない」と怒られる日々。下手に反論すれば先輩数名からつるし上げ。そんな日々を過ごしてるうちに…

どうせ怒られるなら、自分が目についた仕事、やった方が良いと思った仕事は全部やろう。前に進まず怒られるのは割りに合わない。どうせ怒られるなら全力で前に進もう!と考えるようになりました。

これは今も同じ考えです。どんなに頑張っても全ての人に好かれるなんて無理。それならくさらず、前を向いて自分のベストを尽くそう!と。

最初のお店は、技術よりも精神的な鍛練や無知だった自分にたくさんの教養を与えてもらいました。

田舎で過ごしていたら出会うことも、お話しすることもないような政財界の奥様方や、老舗の高級クラブの
ママさん達に全く知らないことをたくさん教えていただきました。

特に、日本を動かすような大企業の社長さん達を陰から支える女性たちのお話し。また、それだけの価値がある社長さん達のプライベートでの心構え。社会人一年目に「これからの長い人生、あなたはどう過ごすの?」という問いかけは短くも深い問いかけでアドバイスでした。

最初に働いたお店は旧数寄屋橋商店街(現在はGINZA5)の中で、美容院の向かいには米倉という理髪店が有りましたが、そこの人たちにもたくさんの学びと影響をいただきました。

外の窓ふきを頼まれ、脚立などの組み立てをして音を立てたり、外に陳列していた化粧品の掃除をしている時に物音を立てたりするとよく怒られたものです。

米倉さんは非常にこだわりが強い方で、お客様に聞かせたい心地いい音は聞かせる。そうでない音は一切聞かせない。というこだわりをお持ちだったので、店の外とは言え雑音は営業妨害になるのです。

我々は美容師や理容師は黒子とはよく言いますが、黒子が雑音をたてるのか?と言われれば無駄な音をたてることは許されません。

その日から、歩くとき、物を置くとき。何かをするときに丁寧な動きを心かけるようになりました。もちろん、完全に音を殺して仕事は不可能ですが、一つ一つの動きを意識して日々過ごすことで生来の雑な所作を改めるきっかけになりました。

そんな日々を過ごして1年半たった頃、社長に「近年赤字の為、このままだと銀座店を無くす」と言われてしまうのです。50年も続くと顧客の高齢化により売り上げが低下してきてると教えてもらいました。

(その話の後、一年持たず閉店。家賃が一ヶ月600万と聞き、銀座に店を出す夢は諦めました。)

社長から赤字という話しを聞いた数か月後。

銀座に相応しくない、金髪にサングラス。アロハシャツの前をはだけた、真っ黒に日焼けした50代の男が「社長呼んでよ。遊びに来たから。」とアポなし来店。

若く、馬鹿だった自分は、「借金取りが来た!ここは俺がなんとかせねば!」と無駄に張り切り、その男を掴み店外に押し出そうと試み、揉み合いになってしまいます。

そんな様子を見て店長が慌てて走ってきて…「K先生に何をしているの!」と。

大半の美容師が知っている。サスーンカットを日本に持ち込んだ偉人を、当時何も知らなかった自分は門前払いに。

 今は当然恐れ多くて出来ませんが、馬鹿だった自分は叩きだそうとする暴挙に出たのです。

自分が働いていた本橋政子美容室はK先生が渡英する前の修業時代を過ごしたお店。そして、社長はその先輩。先代社長が師匠という事を初めて教えてもらいました。

店長たちにそれはきつく説教され、凹んでる自分にK先生は「坊主、美容師楽しいか?」と話しかけて下さりました。

こってり絞られた直後に楽しいか?と聞かれたので、『まあ…」としか答えれない自分に、「俺は楽しいぞ!いくつになっても楽しくて仕方ない!」と。

 まさしく、「之れを知る者は之れを好む者に如かず。 之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず。」(孔子)です。

いまだに現役のその先生は今も楽しそうに色んな作品を作りながら美容師を続けておられます。

美容師を続けていくのに、まずは自分自身がその仕事を本当に好きになること。そして、毎日のサロンワークを楽しむこと。これが何より大事なのだと教わりました。

重要な社会人1年目にこれだけ素晴らしい人達に出会え、その後の人生にいい影響を貰えたことは私のなによりの財産だと思っています。

修業時代(2店舗目青山時代)

美容師2年目の夏。本就職前のアルバイト含め1年半お世話になった最初の美容院は突然無くなりました。

銀座にお店を出すのは諦めましたが当時はカリスマブーム真っただ中。身の程をわきまえず、青山で働いて店を出したいと再就職活動を開始します。

先ほど書きましたが、当時はカリスマブーム真っただ中。まして、原宿青山で働きたい美容師は掃いて捨てるほどいるのです。

ほとんどのお店は門前払い。雑誌に載ってるようなお店は見学はさせて貰えても、中途採用は無し。思った以上に厳しい現実が待っていました。

原宿近辺のサロンは昼前後からの営業が多く。午前中に原宿駅近くのマクドナルドに行き履歴書を作成。(当時はハンバーガー65円だったのと、午前中はほぼ他のお客様はいませんでした。)

営業時間前後に電話して見学のアポ取り。意外と有名店ほど「営業中に来てください。」と言われるので見学して中途採用が有るかの確認。

空いた時間はひたすら美容院を探して歩き回り、空席が有る美容院を見つけてはダメ元で電話して見学させてもらってました。

結論から言うと、100軒見学して面接までしてくれたのは3軒。

そのうち1軒はドレッド専門店。残りの2軒の内1軒は落ちて、選択権は無いものの青山の美容院の就職を勝ち取りました。

引き際を知らない馬鹿だからこそ、真夏の炎天下の中1ヶ月以上地道に歩き回って就活を頑張れたのだと思います。

ただ、そんな厳しい条件で雇ってくれたお店は給料が極少。休みが少ないのは気にしないのですが、交通費は自腹、給料は1週間遅れは当たり前。

前回払った給料日から毎月1週間ずつ遅れ、半年たった頃には給料がいつ出るのか分からない状況になり、生活が困難になるのです。

どうしても困った時は親に仕送りしてもらってましたが、情けない気持ちでいっぱいでした。

なにより、1日に来るお客様の数が片手で数えるほど。それでもプライドが高いオーナーは外でのビラ配りも禁止。(理由は暇な店と思われるから。)電気代がもったいないから練習は禁止。努力する機会が無いのは心を削ります。

従業員の給料より自信の体裁が大事な為、雇ってもらった事は有りがたいのですが半年で辞める事にしました。

この時に「従業員に満足な給料も払えないなら人は雇わない。」と心に決めました。

当時は自分が働いてたようなお店はたくさん有ったと思います。

カリスマブームで急に祭り上げられ偉くなった気になる。

そんな経営者をたくさん見ましたが…

「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならぬ」(トルストイ)

と改めて痛感。

夢は2度破れ、美容師として食べていけるのか?

そして、半年間未払いだった健康保険や年金をアシスタントの給料で支払えるのか?

そんな不安を払拭できず、二軒目の店を辞めて、すぐは再就職せず深夜の運送業の仕分け作業で食いつなぎ、今後の人生を考える期間になりました。

夜に働き、学生さん達が生き生きと通学する朝に仕事帰り。寝て起きると昼過ぎ。

仕事まで暇ですがお金はない。公園で鳩に豆菓子で餌やり。100円ちょっとでは誰とも遊べませんが野良猫や鳩はお金が無くても寄ってきてくれます。

そんなみじめな日々を過ごすうちに、当時最大手だった会社の元で美容師として再起を図ることにしました。

修業時代(3店舗目千葉県)

ちょうど松戸店が新規オープンするという事で、オープニングスタッフとして雇ってもらい数ヵ月ぶりに美容師に復帰しました。

松戸店オープンに向け、自分と同じく中途採用組、他店舗からの移動組。全員集まっての入社式兼決起会が本社にて行われました。

当時の社長は創始者の息子さんに代わった直後で、会議室で皆で輪になり行われました。自分は新社長の真正面に。

そんな特等席でほぼ爆睡してました。当時は興味が無い話しは全く頭に入らず、美容師じゃない社長の話は退屈で苦痛過ぎてたんです。

決起会がが終わった後に部長に「お前は大物になるよ!」と笑いながら言われたのに、小者のまま会社を去ってすみませんでした。

その後、松戸店の立ち上げは失敗。最初の数ヵ月で暇になったのですが、おかげで立て直しのために本社からディレクタークラスの人が応援に来てくれ色んなベテラン美容師さんの話が聞けたのは幸運でした。

とあるディレクターに言われた言葉が大きく自分の心に残っています。

「お前のように道の真ん中をまっすぐ歩いてるつもりでも、どうやっても道を踏み外してしまう人間ってのは一定数いる。せめて道を外れるなら良い方に外れてくれ。」

幼少期から変わり者同士が集まっていたせいで、自分の考える普通と世間の普通がどうしてもかみ合わなかったのです。

そこで、自分の中でしばりを作ることにしました。自分が思いついた発想は「自分個人の利益は悪」「社会、もしくは周囲の人間の利益となる事は善」に分類する。

どうやっても普通に収まらないなら、悪い考えは捨て、良い考えの方に頭を使おう。と

「謀りごと多きは勝ち、少きは負く」(毛利元就)

美容業界を含め、世の中は競争社会。生き残るために色々考えるのは楽しいのですが、人を陥れたり欺く事を考える暇が有るならみんなが幸せに。

「今の普通のままでは、みんなが幸せになれない。ならば何か改善案を」と。

ただ、どんなに考えても「力なき正義は無力なり、正義なき力は暴力なり」この時の自分はまだ雇われの身。どんなに理想を掲げようと只々無力でした。

その後、いろいろ手を尽くしても松戸店は暇だった為、千葉の外房のお店のヘルプを数ヵ月経験した後に、家の近所だった浦安のイクスピアリの店舗に。

青山、松戸と暇な店で経験不足だった自分には急に多忙なお店は、体力的にも精神的にも慣れるまで大変でした。しかし、関東での美容人生の中で一番楽しく充実した美容師人生を過ごさせてもらいました。

先輩と営業後にご飯を奢ってもらいながらコミュニケーションをとる。

今の子たちは嫌がるかもしれませんが、当時は普通だった事が自分には経験無く、色々話をしてもらったりと為になりました。

しかし、ここのお店は4年弱で辞める事を決意。

それは、「30歳までに店を出す!」という目標が有り、この時期には「地元の岩国に出したい」と思っていたので、地元で3年ぐらいかけて地盤を築く。逆算すると27歳には帰りたい。

しかし、離職率下げたい本社は広島店に移動しろと言ってきます。仕方ないので「田舎に帰って農家を継ぎます!」と嘘をついて帰りました。

会社の数字の為に社員を犠牲にするのが当たり前。それが大きな会社になるために必要なことなんだと学びました。

それなら自分は店を大きくする気は無い。小さな店でも人を幸せに出来る店を作ろうと岩国に帰ることにしました。

開店前

地元に帰り、隣町の大竹市にて一度就職するもそこは最初の約束の給料、条件と違いすぎました。

給料はともかく、面接時に[地元の岩国に店を出したい」を応援してくれると言われたのに、就職後広島市内の店舗に行ってもらうと言われたので1ヶ月で辞めました。

その後、複数のお店の面接を受けましたが全滅。なかには「東京で働いてた人はうちの顧客を持って行くから嫌です」とはっきり教えてくれたお店も有りました。

それならば迷惑をかけないような場所。岩国ならではの「米軍基地の中」の美容院で働こうと、米軍基地内の派遣会社に面接を受けに行きました。

当然ですが英語で会話出来ない為、まずは英語が喋れるまでフードコートでピザ作りから始める事に。英語が学べるだけでも少しは前に進めそうだし、なにより英語を覚えれば海外のお客様も担当出来る可能性が広がる。と前向きな考えで働くことに。

なにより、店を出すならまずはお金が必要。その点では、当時の美容院の働く環境よりはるかに好待遇で、バイトとは言え規定時間働くと社会保険までかけてくれます。

ピザ屋は飲食店の中ではきついと評判でしたが、自分が働いてきた、「休みなし。食事休憩なし。口答えは許されない。」そんな当時の美容業界に比べるとはるかに楽で快適でした。

真面目に働いていたある日、マネージャーに「俺と一緒に沖縄に研修に行こう。俺がお前を正社員にしてやる。」と有難いお誘いを頂きました。

即答で断ってしまいましたが、米軍基地の中のフードコートの正社員は準公務員。限りなくホワイトで安定した生活。残業もほぼ無く、副業も可能で有給消化も100%…下っ端美容師では考えれない好待遇….

当時の彼女(今の妻)に相談してみました。

「美容師を諦めれば早く結婚できるけどどっちが良い?明日お願いしますと言えばまだ大丈夫かもよ?」と

嫁さんに「美容師のあんたが良い。」そう言われたからには、美容師の道を突き進むしか有りません。

「あの時正社員になってた方がマシだった」なんて絶対後悔させれない。

雇ってもらえないからなんて言い訳も出来ない。英語覚えて顧客掴んでからなんて言い訳も出来ない。そんな自分が美容師に戻れる方法はただ一つでした。

親に頭を下げ、「老後の面倒見るのでお金貸してください。どうしても美容師やりたいです。」とお願いするのみでした。

こうして、スタイリストの経験もほぼ無く、関東での修行も中途半端。顧客も0。開業のノウハウもセオリーも何も分からない。

そんな人間だから25坪の物件に2席だけの無駄に広すぎる美容院を開業しました。 

顧客が居ない、技術も無いなら現在美容院に通えない人でも来れる、広さを生かしたバリアフリー作り。お子様連れでも安心な美容院にしよう!が始まりです。

勉強や練習は今まで以上に頑張る。潰れなければいつか上手くなる。だからその日まで続けたい。

そんな思いを込めてつけた名前が「eternite」(エターナイト)です。

正確な発音は仏語で(エテルニテ)意味は「永遠」ですが潰れないようにと願いを込めてつけました。

開店~移転まで

こうして、30歳になる数か月前に思った形とは大幅に違いますがお店を出すことになりました。

とはいえ、お店を出すにあたって普通は備わっている物が何も備わっていませんでした。

充分な経験、経験に裏付けされた技術。
お店を出すためのノウハウ、運営の仕方。
コネも無く、顧客も全くいない。

地方での家賃の相場も知らず、立地条件にこだわった結果、一人で始める美容院の相場の倍ぐらいの店舗を借りていました。

ただ、自分が働いていた銀座の店は一ヶ月600万円。青山は500万円。それに比べると安い気がして、自分が頑張ればいい。贅沢を我慢すればいい。顧客もいないのに無茶な経営計画でした。

お店を出した最初の1年は赤字が出なかっただけ御の字。一番少なかった時は一ヶ月で5万円も給料が取れなかった事も有ります。

ただ、暇なので自由な時間は有りました。

「無用之用」(老子)何もないからこそ価値が有る。

その無の時間を価値が有るものにするのか?本当に無駄にするのか?

一年間ピザ屋で働いてた自分には何もないけど、「美容師の勉強も練習も出来る環境。」それだけで有難く感謝できました。

美容師を離れている間も、広島で行われる定期勉強会には参加をしていましたが、仕事は出来ないのに勉強だけしていたジレンマに比べるとはるかに気は楽でした。

有難い事に開店から一年半たつ頃には経営は安定し、生活のめどが立ち無事結婚。

開店から3年たつ頃には人を雇わないと断るお客様が多過ぎる。そんな贅沢な事で悩めるようになりました。

ただ、人を雇うという事はそれなりに責任を背負う事でして….

店を出して6年、36歳の時。ストレスと過労から食事をとることが出来ず、抵抗力が落ち「右の親指が二倍以上に膨れ、骨が溶け壊死しかけた」のです。

やむを得ず1度目の1か月近くの休業。

「切断したいけど美容師さんだから切らない方が良いよね?」と言われ、当然切断はしたくないと話しました。

代わりに、「敗血症起こしかけてるから副作用が出る可能性があるが強い抗生剤使って良いか?」

美容師生命が断たれるよりはマシと抗生剤治療を選びました。

幸いにも切断は免れましたが、今でも後遺症で右の親指の先は以前のようには力が入りません。

カットなどの作業は根元から動かす、アイロンワークは親指に頼らない等。工夫次第で問題なく仕事できるように。

元のように動かすには数年かかりましたが、今は怪我前と比べて精度、速度全く問題ないのでご安心ください。 

ちょうどこの頃に怪我もですが、一度目の大きな転機。最初の店の拡張工事、個室の増設をしました。

従業員を雇い、お客様が増えたことで、「最初の頃の落ち着いた雰囲気が好きだった」「子連れ、車椅子のお客様が来にくくなった」というお客様の声に応えたかった為です。

当時はまだ若く、「お客様の要望に応えたい。」「従業員もうちに来たからには幸せにする!」と、今思えば自分の実力以上に結果を出そうと無理をしていたのです。

この頃は朝の9時ぐらいに出勤し、遅い時は22時過ぎまでお客様を担当し、夜の1時、2時まで片付けや掃除をしていました。

人を雇い始めたころからうちは8時間労働を厳守。朝の準備も、夜の最後の片付けも私がやってきました。美容の仕事も、自分のお店も好きなので苦にはなりませんでした。

しかしその一方、身体は長年の無理が蓄積し、この頃から日常生活にも様々な支障が出てきていました。

ほぼ毎年財布を落としたり、朝起きても全く疲労感が取れず、野菜ジュースを飲みながら肉まんをレンジで温めようとしたら、肉まんを冷たいまま半分食べところで野菜ジュースを紙パックのまま温めて気付いたりしていました。

この頃は無理をしてでも、一人でも多くのお客様を担当したい。従業員に少しでも多く給料を出してあげたい。自分はまだまだ成長できると信じて無理をしてきました。

この頃に一人目の高卒から入った子が無事に美容師免許を一回で取得。こうしてスタッフが頑張ってくれ、結果につながる手伝いが出来ると、頑張った甲斐が有ったと嬉しくなります。

そして、順調なサロン経営だったこの頃、顧客の中にいらしてた銀行員の方に色々と経営の相談をしていました。

家賃も結構な金額を払っている。売り上げは順調に右肩上がり。その数字を見て、ありがたい提案をしてもらいました。

「店舗兼住宅に興味は有りませんか?この数字ならローン通せますよ!」と言っていただけたのです。

「いつか新築のマイホームが欲しい」という妻の要望を叶えてあげれる。そして、頑張った結果を認めてもらえたことが嬉しく、もっと頑張らねばと思ったのです。

移転~現在

お店を出して7年で移転先探し、その1年後の8周年を現在の今津の店舗で迎えることが出来ました。

最初のお店で途中から増設した個室。大変好評をいただき、「個室を優先的に使わせて欲しい」という方が増えました。

しかし、個室は車いすの方や、お子様連れのお客様など、他では対応できない方向けだったので全てのお客様のご要望にはお答えすることが出来なかったので、新店舗は「全席個室、バリアフリー作り。」に。

このおかげで、最初に店を出した時の「いろんな方のお悩みを解決し、美容を楽しんで欲しい」という最初の目的を再び叶えることが出来ました。

そして、移転して二年後の2020年。世間を騒がす大きな事件が起きました。

世界的な大恐慌を起こした「新型コロナウイルス」によるパンデミックです。

各地がパニックに陥り、岩国でも感染者が出たり、広島でロックダウンが起きるたびに売り上げは乱降下しました。

幸いにも、全席個室にし、全ての部屋に窓と換気扇をつけていた事、衛生管理を万全にしていたおかげでお客様から信頼を得、比較的早く、少しづつですが持ち直すことが出来ました。

この時期はどこのお店もそうだったと思うのですが、お客様が来ない時期は本当に全く来ないし、来る時期にはいっせいに来る。

その為、来ない時期は心を痛め、来る時期はどうしても無理をしてしまうことが多くなります。そんな中、スタッフと交わした「三年以内に店を出させる」の約束もコロナのパニックを言い訳にせず果たせたことは嬉しかったです。

自分が最初に出した店のすぐ近く、今の店から1kmぐらいのところに、うちの元スタッフのお店が有ります。今も良好な関係なので、自分と近い営業形態で彼には始めるようにアドバイスをしました。

お店を出した当初、自分がうまくいった成功例を教えやすく、お客様に「以前のように夜遅くまでやって欲しい」という声はいただいていましたが自分は体力的にも無理が出始めたので、彼に引き受けてもらいました。

その他にも、お子様連れのお客様が安心できる店作り、車椅子の方でも大丈夫なバリアフリー。さまざまなうちの良い所を引き継ぎ、今も元気に営業してくれています。

彼にお店を出させて一年後、一度目の入院。病名は「潰瘍性大腸炎」国の指定難病を発症しました。

この病気の主な原因は過労とストレスです。昔ながらの人間の為、問題は全て気合と体力で解決してきたつけが回ってきたようです。

夜遅くのお客様はお店を出した子に引き受けてもらっていましたが、自分が入院している間、他のお客様もしばらく引き受けてもらいました。

そして、さらに二年後に同じ病気で二回目の入院。この時に、自分はもう人を育てる余裕は体力的にも、精神的にもないことを認めざるを得ませんでした。

二回目の入院時にも彼のお店を頼ってくれたお客様、退院をずっと待ってくれていたお客様。いろんな方に迷惑をかけてしまい、人を育てたいと無理をするのは自分のエゴであると反省しました。

本音では、もう一人自分のお店を持つ子を育てたかった。可能であるならば、アシスタントの子を1から育て、自分のお店を持たせて幸せになって欲しかったのです。

2025年の二度目の入院→退院からはアシスタントを使わない最初のマンツーマン営業に戻し、ずっと支えてくれているパートの方と二人体制に。

退院後もたくさんのお客様に戻って来ていただき、すごく嬉しかったのですが、入院中に輸血をする一歩手前まで大量出血していたため、退院後半年しても体力は戻らず、今までのような数のお客様を担当することは不可能になりました。

そこで、今までは岩国地域の中では他のお店より安く、みんなが来やすい環境を作っていましたが、体力的にも無理が出始めたので、方向転換し値上げをさせていただきました。

現在のeterniteは「良い物を安く」のマーケティングから、「値段以上の価値を与える」を今は目指しています。自分では、値上げをした分以上にクオリティを上げたと自負しています。

その付加価値を高めるため、現在は「ケミカレーション」というオンラインサロンでお世話になっています。さまざまな美容師さんがそれぞれの得意分野を教え合い、自分では気づかなかったことをたくさん学ばせていただいています。

「人を育てる。」ということは思った以上に大変でしたが、今は自分自身の成長のために時間を使える。という幸せを再認識し、同じように高め合える人にのみ部屋を貸す「シェアサロン」として営業しています。

人を育てるなどと言うおごりを捨て、「美容師の仕事が好きという人と一緒に美容の仕事を楽しむ。」自分の原点である、「之れを知る者は之れを好む者に如かず。 之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず。」をこれからも実践していこうと思っています。